世界5代ジュエラー カルティエの伝説的な歴史と腕時計の歴史
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一眼見れば、分かるシルエットの代表といえばカルティエの腕時計ではないでしょうか。
四角のシンプルな文字盤の中には、計算され洗練された美しさが私たちを満足させてくれます。
そんなカルティエというブランドなのですが、王族や貴族に愛され続けてきたブランド、と表現するのが一番相応しいでしょう。
カルティエのような『伝統』と『歴史』を誇る高級ブランドはほとんどありません。
この記事では、そんなブランド名は知ってるけど深く知らないカルティエの歴史と時計について解説して参ります。
この記事を最後まで見終わった時には、なんでカルティエというブランドが特別なのか?
というが分かって頂けると思いますので、どうか最後までお付き合いくださいませ。
カルティエの歴史(初代から2代目まで)
1847年、ルイ・フランソワ・カルティエは、自身の名を冠した会社(カー・ティー・アイと発音)をパリのモントルゲイユ通りに小さな工房を設立しました。
そこから、メイン通りに店を移しおしゃれな人々に向けて、さまざまな宝飾品を提供していくことになります。
この頃のフランスは、経済成長が著しくパリの街は富裕層で賑わっていました。
そんな中、カルティエはマルチド王妃を筆頭に、皇室とそれを取り巻く高貴な人々を顧客として迎え入れるようになっていきました。
その後、1874年に息子のアルフレッド・カルティエが経営を引き継ぎました。
アルフレッドが引き継いだこの時代、フランスは王政が廃止され本来の顧客であった貴族が減少していく時代であったために、カルティエも一緒に衰退していくかのように思われましたが、実際にはその逆でさらに繁栄していくことになります。
これは、ブルジョワジーと言って自分で事業を起こして、成功した資産家がそれらの貴族の真似をすることで、それまでと同じ高級品が売れるという現象が続いたからなのです。
もちろん、それだけでなく父から受け継いだ高い品質を守る姿勢が、客層を広げていったのです。
また1899年お店をラ・ぺ通り13番地に移転させます。
ここのお店なのですが、現在でもカルティエの本店として君臨し続けており、世界のセレブから愛され続けています。
そして、アルフレッドはカルティエを宝飾品に限らない贅沢品への世界へ、道を切り開いていくことを決断します。
これが、宝飾技術を生かした時計であり、カルティエの時計が他のブランドと違う歴史なんですね。
ここまでを振り返ると、元々カルティエは時計屋さんではなくジュエリーなどの宝飾品屋さんであり、その技術を応用して時計に参入したということですね。
3代目(ルイ&ピエール&ジャック)の時代
アルフレッドの3人の息子、長男のルイ、次男のピエール、三男のジャックは父親からの指導のもと、仕事に対しての責任感を教えこまれ3兄弟の時代に、カルティエは世界的に認知されるブランドになったのです。
3人は力を合わせ、父親から任命されたそれぞれの役割を果たし、長男のルイはパリ支店、次男のピエールはニューヨーク支店、三男のジャックはロンドン支店で働き、しっかり連絡をとりながらも、世界展開に向けて着々と進めていくのでした。
3兄弟みんな、素晴らしい才能を持ち合わせていましたが、その中でも特にこの人が『カルティエを作った』と言われるのが、長男のルイです。
彼は、新素材にも目を向けます。
それまではメインの素材はシルバーでしたが、加工はしやすいものの変色しやすく手入れが大変だと考えていたところ、プラチナを発見します。
当時のおしゃれなデザインの様式は、ガーランドスタイルと言ってこれは花模様を連想して作られる優美なデザインでした。
ルイはこれを宝飾デザインの中に取り込むことで、成功を手にします。
出典:カルティエ ガーランドスタイルのジュエリー
ですが、1920年頃からデザインの流行は変わり始め、アールデコスタイルが沸き起こるようになりました。
アールデコスタイルとは、長方形や正方形の明快で幾何学的な構成をブローチやネックレスに用いて、それはカルティエの代表的なアイコンモデルへと成長していくのでした。
そんなアールデコの様式なのですが、まだまだ世間では認知されてない1904年に先見の明があるルイは、デザインの中に取り込んでいくことになるのです。
中でも、ルイが第一次世界大戦中に戦車のキャタピラーや砲弾をヒントデザインした『タンク』は、アールデコスタイルの典型であり、この時計こそがカルティエを黄金時代へと導いてくれるようになっていきました。
タンクについては、後の章で詳しく解説しますね。
そして、カルティエは熟練した製造技術に裏打ちされた、大胆で独自性のある創造的なブランドとして知られるようになりました。
サントス誕生秘話
タンクが誕生する前に、サントスというモデルが誕生しました。
モデル名だけが一人歩きして、なかなかその実態がつかめませんが実はサントスはタンクよりも前に誕生しています。
ここからは、そんなサントスの誕生秘話についてみていきましょう。
まず、サントスとは『アルベルト・サントス・デュモン』のサントスであり、これは人の名前になります。
空を旅することを願ったこの人は、気球や飛行機を使って何度も何度も空への旅を挑戦し、1903年のライト兄弟の初飛行から遅れること3年後、フランスで空を飛んだブラジル人なのです。
父親がかなり大きなコーヒー農園を経営していたのですが、怪我のためにその農園を売却し治療に専念するために家族でフランスに引っ越してきたんですね。
そんなヨーロッパの空を初めて飛行した人物であるために、かなり有名でそれはカルティエとも信仰を深めるほどでした。
そして、ある日サントスはルイにこのような相談を持ちかけるのです。
『飛行中に、時間を確かめるたびに時計をポケットから出すのでは、操作に集中できない』
ご存知の通り、1900年代前半はまだまだ懐中時計がメインであり、腕時計はありませんでした。
ここで先ほどの話につながるのですが、1906年サントスの飛行機は高度3mで60mだけ飛行し、その時にサントスの腕にカルティエの腕時計がつけられていたのでした。
これは紛れもなく、操縦桿から手を離さずに時間を知りたいという、サントスのためにカルティエが製作したものだったんですね。
そしてこのサントスは、1911年に一般販売され今につながってるんですね。
宝石商の王が故に、王の宝石商
『ジェントルマン』という言葉を聞いて連想される国といえば、やはりイギリスではないでしょうか。
イギリスは歴史の成り立ち上、身分が高ければ高い人ほど、見た目が重要であり、身につけるものはどれもが一級品でなければなりません。
特にエドワード7世は、歴代の王朝の中でもおしゃれだったと言われておりカルティエを贔屓にしていました。
その生い立ちを見てみましょう。
エドワード7世は、母親であるヴィクトリア2世の即位期間が長かったので、60歳からの即位になります。
そんなエドワードは英才教育で育てられ、様々な制約があるなかで自由に行動が許されていたのが『外交』だけだったんですね。
そんな唯一認められた外交の時には、しっかりと着飾って自由を謳歌し様々な国のお偉いさんと、信仰を深めていくのでした。
もちろん、その時にはカルティエのジュエリーや腕時計をつけていました。
外遊好きのエドワードが特に愛したのが、『フランス』でした。
流暢にフランス語を話し、パリでは劇場やレストランに行くことを楽しみ、イギリスにはないフランスの優美さを愛したのです。
そして、1902年の戴冠式から2年後の1904年に、カルティエに王室御用達の勅許状を贈りこのことから有名な『宝石商の王が故に、王の宝石商』という言葉が誕生したんですね。
また、この戴冠式に合わせてカルティエのロンドン店が開店し、エドワード7世も大いに喜んだと言われています。
マハラジャに愛されたカルティエ
話はまた、イギリスのカルティエ店舗に戻りまして英国進出は、英国貴族たちが待ち望んでいたことでしたが、同時にカルティエに一層の繁栄をもたらすこ とになりました。
それは、英国を頻繁に訪れる、インドのマハラジャ(王)たちとの接触でした。
この頃インドは、イギリスの植民地でありこの2国は非常に密接に結びついており、人の往来も盛んに行われていたのです。
ヴィクトリア女王時代末期にあたる18世紀の終わりから、20世紀初頭の英国では、インド宝飾品の評判が高まっていました。
エキゾチックで優美なデザインが、人々を魅了したのです。
カルティエの宝飾品のデザインも、その影響を受け始めていました。
そんな状況であったために、ロンドン店を任されていた3男ジャック・カルティエは、より一層の関わりを求め、1911年インドへ視察に行きます。
目を見張るほどの、贅を尽くした宮殿に迎え入れられたジャックは、彼が持参したカルティエの宝飾品を披露すると、マハラジャたちは大いに興味を示したのです。
また、当時ヨーロッパで流行していた懐中時計にも、一様に強く惹かれると同時にカルティエの魅力を知った多くのマハラジャが、カルティエを贔屓にすることになったのです。
その注文は多岐にわたり、彼らの伝来の家宝を一掃し、すべてを西洋風に置き替えるほどであったらしいです。
カラフルなトゥッティ・フルッティやブランドのマスコットであるパンテールなど、カルティエの最もよく知られたデザインの数々を発表し、マハラジャやウィンザー公、後にはモナコのグレース王女など、世界のロイヤルファミリーのために、『一点ものの宝石』を仕上げたのもこの時です。
タンクの誕生
1917年に初めて製造されたこのモデルは、西部戦線で使用されていた2人乗りのFT-17戦車からインスピレーションを得ており、そのデザインは戦車をモチーフにしていると言われています。
ブロンカール(「担架」の意味)と呼ばれる太いサイドにつけられてるキャタピラーが特徴的なこの長方形のフォルムは、戦車を上空から見た姿をスケッチしてデザインされたものでした。
戦車というモチーフの採用には、第一次世界大戦時に戦車の活躍が終戦を導いたという功績を讃え、「平和の象徴」という意味があるためだと言われています。
このような直線を多用したデザインは、アールデコの時代の代表的なデザインでありこれは一般的に、1920年代からは始まりなのですがカルティエは、10年前半頃くらいから、そのデザインを時計に取り入れていたと思われます。
タンクはその代表であり、左右対称の直線と文字盤を囲む四角の風防は、まさにアールデコのデザインのど真ん中と言えますよね。
タンクにも複数の種類があり、
その後、タンクは派生モデルが誕生し「タンク・アメリカン」「フランセーズ」「アングレーズ」など様々なバージョンが誕生しました。
左からタンク・アメリカン、フランセーズ、アングレーズとなっておりそれぞれアメリカ、フランス、イギリスの国名が入るモデル名になっております。
これは、かつてルイ・カルティエと兄弟がパリ・ロンドン・ニューヨークに拠点を置いたことへのオマージュだそうです。
カルティエの長い歴史と、伝統を感じさせてくれる3モデルなのですが、残念ながら2年前にアングレーズは生産が終了してしまっています。
その後、若年層にもカルティエの魅力を普及させるために、『must de cartier』マスト/ドゥ/カルティエのラインが誕生します。
マストとは、英語で『〜しなければならない』という意味であり、カルティエのブランドから発信される意味は、おしゃれである人は持たなければならない時計と言ったところでしょう。
マストラインは1973年に誕生し、素材やムーブメント、全体の造りを見直して通常ラインより安価に作られているものの、カルティエを楽しみたい方に向けて誕生したラインだったんですね。
1970年代というと、日本から生み出されたクオーツ元年でもあります。
よって、カルティエのマストラインの腕時計には安価なクオーツムーブメントも採用されることとなり、これまた大ヒットさせたんですね。
パシャの誕生
カルティエが抱えた、王侯貴族の顧客は数多い。
その贅沢かつわがままな注文から、カルティエの歴史を刻むひとつの腕時計が生まれています。
若いころパリで暮らし、社交界にも出入りしていたという、モロッコの都市であるマラケシュのパシャ(太守・たいしゅ)、エル・ジャウイ公は、1930年代、カルティエにこんな注文を出しました。
「プールで泳いでいる時でも、つけていられる時計が欲しい」
と。
時刻など、何人もの従者に訊けば、すぐにわかるはずなのに….....。
なんともわがままな注文でした。
しかしこの注文は、着実に実績を積んでいたカルティエの腕時計職人の意識を触発し、実を結ぶことになるのです。
実は、最初から今のパシャの形をした時計をプレゼントしたわけではなく、最初は1931年に開発された角型防水時計のタンク・エタンシュでした。
このタンク・エタンシュとは、フランス語で「防水」という意味を持ちます。
それから12年の歳月を経て、ラウンド型の現行のパシャの形になり、このような誕生秘話から「パシャ」という名前が付けられたんですね。
現在のパシャの原型となるモデルが発表されたのは1943年。この時既にラウンド型のケースにりゅうずプロテクターと風防ガラスを保護するためのグリッドを備えていました。
こうして防水機能を持つ腕時計、『パシャ』が生まれました。
まとめ
カルティエのアーカイブは、歴史を紐解けば王族や上流階級のためにジュエリーをデザインし、多くの貴族から注文を受けたことを証明しています。
カルティエの時計を所有していたのは、もちろん王族や貴族だけではありません。
年代とともに、顧客は代わり今ではハリウッドセレブが愛し、リシュモングループに入った今となってもその人気は衰えるどころか、より人気のあるブランドへと成長を続けています。
カルティエは、フォーブスが毎年発表する「世界で最も価値あるブランド」のリストに常にランクインしています。
その伝統的な歴史を持ちながら、先代が積み上げてきた力強いデザインと高級時計製造への現代的な取り組みが、この会社が評価される理由でありビジネスの将来を支えているのです。