デカアツ腕時計はヴィンテージになった時どう評価されるのか?
こんにちは、ベルモントルの妹尾です。
本日は「デカ厚腕時計は、ヴィンテージになった時どう評価されるのか?」という内容でお話しして参ります。
以前、デカ厚ブームがすでに終わりを迎え、パネライやウブロが当時ほどの勢いを保てていないというお話をしました。
一方で、腕時計というものは、時間が経つにつれて"ヴィンテージ"という、まったく別の評価軸で語られるようになっていくものでもあります。
では、あのデカ厚時代を象徴した腕時計たちは、今後、数十年という時間を経たとき、ヴィンテージとしての評価はどうなっていくのか?
単なる"一時期の流行モデル"として、埋もれていってしまうのか。
これは、単にパネライやウブロといった特定のブランドだけの話ではなく、腕時計というものが、時間の経過とともにどう評価され直されていくのか?という普遍的なテーマにもつながっていくんですよね。
今回はこの流れについて、これまでお話ししてきた内容を交えながら、一緒に考えていきましょう。
それでは話を進めて参ります。
そもそも"ヴィンテージになる"とは、どういうことなのか?
デカ厚は、間違いなく"ブーム"でした。
1998年から2015年頃まで、およそ15年から17年という長い期間、腕時計業界を席巻した現象です。
ここで大切なのは、"ブーム"という言葉と、"ヴィンテージ"という言葉は、実は正反対の時間軸を向いている、ということなんですよね。
ブームというのは、「今、多くの人に求められている」という、現在進行形の熱量を指す言葉です。
その瞬間、その時代の空気の中で、いかに多くの人を熱狂させ心をつかんでいるか。
これがブームの本質なんですよね。
ですので、定期的に現れる一発屋芸人とかをイメージして頂くと分かりやすいと思います。
一方でヴィンテージという言葉は、まったく逆の方向を向いています。
「あの時代に作られたものが、今になって、あらためて意味を持つ」という、後から振り返って初めて成立する評価なんです。
ブームの真っ只中にいる当事者には、その渦中にあるモノが、後にヴィンテージとして評価されるかどうかは、まだ分かりません。
どちらかというと、良い方向に考えやすくなると思います。
例えば、金の価格が上がっていればこのままもっと上がっていくとか。キオクシアの株価もこれからAIバブルでまだまだ上がるとか。って考えになりやすいです。
このようにブームというのは"今"の熱量であり、ヴィンテージというのは"後"からの評価だからです。
この2つの言葉の間には、実は"静寂期"とでも呼ぶべき、空白の時間が存在しています。
ブームが去った直後は、多くの場合、その反動として評価が落ち込む時期を迎えます。
以前の動画でもお話しした通り、パネライの平均再販価格は前年比で約8%下落し、ウブロも業界ランキングで順位を落とすなど、デカ厚は今、まさにこの"静寂期"の真っ只中にあるんですよね。
この静寂期を経て、再び評価が積み上がっていくのか、それとも静かに忘れられていくのか。
その分かれ道こそが、今回のテーマである「ヴィンテージになるのかどうか」という問いの、本当の焦点なんです。
この静寂期という考え方は、実は他のブランドの歴史からも見えてきます。
そもそも、今でこそサントスカレは150万円前後になっていますが、これはここ5年の話であって、その前は30万円程度でデカアツのサントス100の方が圧倒的に評価が高かったですからね。
そこからデカアツのブームが終わって、何が本当に良いものなのか?が分かってきて少しずつ評価が積み上がっていった結果、今の"ヴィンテージ"という立ち位置にたどり着いているんですよね。
つまり"ヴィンテージになる"というのは、ブームの熱量がそのまま持続していく現象ではなく、一度その熱が冷めた"静寂期"を経て、まったく別の評価軸のもとで、あらためて価値が積み上げ直されていくプロセスなのだといえます。
では次に、静寂期を抜けられるかどうかは、"機能由来"か"目的化"かで分かれる!という内容で解説して参ります。
静寂期を抜けられるかどうかは、"機能由来"か"目的化"かで分かれる
先ほどお話しした"静寂期"という考え方を踏まえると、次に気になってくるのが、この静寂期を無事に抜けて、あらためて評価が積み上がっていく腕時計と、そのまま静かに忘れられていく腕時計の違いは、どこにあるのか?という点なんですよね。
ここで重要になってくるのが、以前お話しした、"機能由来の大きさ"と"デザイン由来の大きさ"という視点です。
パネライは、もともと1930年代にイタリア海軍の潜水士向けに開発された、視認性という機能要件から大きくなったブランドでした。
潜水服の上から着けるという特殊な用途があったからこそ、当時としては規格外の大きさが、必然として成立していたんですよね。
ですが1993年の民間展開以降は、軍用としての実用性よりも、大きさそのものを"存在感"として打ち出す方向へと、軸足を移していきました。
ウブロの「ビッグ・バン」も同様に、異素材同士を組み合わせる"フュージョン"というコンセプトのもと、機能要件からではなく、デザインとしての主張を目的に、大きく設計されたモデルでした。
つまりデカ厚時代を代表するモデルの多くは、"機能由来"ではなく"目的化"、つまりデザインとしての大きさを軸に展開されていたということになります。
この違いが、静寂期を抜けられるかどうかを左右する、大きな分かれ道になってくるんですよね。
機能由来の大きさであれば、"なぜこの大きさが必要だったのか"という理由が、時代を超えて整合性を持ち続けます。
ですがデザイン由来の大きさは、"その時代に、その大きさが格好よく見えた"という、感覚的な理由に支えられています。
これは今までの人生の中で色々と経験されて来たことだと思います。
だからこそ、時代の空気が過ぎ去ったあとの静寂期において、この感覚的な理由だけでは、評価を支え続けることが難しくなりやすいんですよね。
なんでかっていうと、その時にはもう『多くの人を熱狂させ心をつかんでいないから」です。
では次に、時代を象徴するデザイン"は、諸刃の剣になる!という内容で解説して参ります。
時代を象徴するデザイン"は、諸刃の剣になる
デザイン由来の大きさを持つ腕時計が、静寂期を経てどう評価されていくのか。
この流れの中で、"時代を象徴するデザイン"というものが持つ、二面性に注目してみます。
ひとつの側面が、時代の気分と強く結びついたデザインは、その気分が過ぎ去ると、"古臭さ"として見られてしまうリスクです。
パネライやウブロが、デカ厚ブームの終焉とともに、当時ほどの勢いを保てなくなっているという現状は、まさにこのリスクが表面化した結果だといえるでしょう。
ですが、もうひとつの側面として、時代を象徴するデザインだからこそ、静寂期を抜けた先で、"あの時代を代表する一本"として、あらためて価値が見出される可能性もあるんですよね。
これは、腕時計以外の分野でも見られる現象です。
ファッションの世界でも、一度は"古い"とされたスタイルが、数十年後に"あの時代らしさ"として、あらためて評価され直すというサイクルは、繰り返し起きてきました。
たまごっちも定期的に復活していますが、その時には3ヶ月くらいはブームになっているので、その時は人々の心を掴んでいるんだと思います。
腕時計についても、同じことが起こり得ないとは言い切れませんよね。
デカ厚ブームという現象自体が、2000年代という特定の時代を色濃く反映したものである以上、静寂期を抜けて時間が経てば経つほど、"あの時代ならではの大きさ"として、逆に強い個性を放つようになる可能性も十分にあるんです。
つまり"時代を象徴するデザイン"というのは、静寂期の中で評価が下がり続けるリスクと、静寂期を抜けた先で評価が上がるチャンスの両方を、同時に抱えている、諸刃の剣のような存在だといえるでしょう。
現時点では、まだブームの終焉から日が浅く、"古臭さ"として見られる側面が強く出ている段階にあると考えられます。
たとえば、初期のロイヤルオークやポールニューマンデイトナも、発表当時は決して高く評価されていたわけではありませんでした。
むしろ、当時の常識から外れた挑戦的なデザインとして、賛否が分かれていたモデルだったんですよね。
それが数十年という静寂期を経て、今では象徴的な一本として語られるようになっています。
この前例を踏まえると、デカ厚時代の腕時計たちにも、同じような道筋がまったくないとはいえません。
大切なのは、静寂期の真っ只中にある"今"の評価だけを見て、結論を急がないことなんですよね。
ロイヤルオークもポールニューマンデイトナも、静寂期の渦中にいた当時は、誰もその後の評価を予測できていませんでした。
デカ厚時代の腕時計たちも、今の評価がすべてではなく、まだ物語の途中にあるという視点を持っておくことが大切だといえるでしょう。
では最後に私の考えをお話しして締めくくりと致しますね。
ベルモントルの店長の考察
これまで静寂期を抜けて、あらためて評価を積み上げてきたモデルには、共通する特徴があります。
ロレックスのデイトナやエクスプローラー、オーデマ ピゲのロイヤルオーク、カルティエのマストタンクやサントスカレ。
これらに共通しているのは、まず何より、ブランドパワーが当時から今に至るまで、一貫して強い!もしくは昔よりも強くなっているという点です。
そしてもう一つ、ここが大事だと思っていますが、意匠そのものが決して装飾過多ではない、シンプルな造形だったという点も、共通しているように思います。
装飾を削ぎ落とした、引き算のデザインだったからこそ、時代が変わっても古びることなく、静寂期を抜けた先で、あらためて評価される基準を持っていたと言えます。
一方でパネライやウブロを見てみると、まず大前提として、ブランドから出ているモデルが"大きい"ということ自体が、シンプルという方向性からは、そもそも外れてしまっているんですよね。
だからこそ私は、デカ厚時代の腕時計たちが、この先あらためて評価され直す可能性は、正直なところ、あまり高くないのではないかと見ています。
ブランドの力という土台も、シンプルという意匠も、どちらも十分に備わっていたとはいえないからです。
そもそも論として、いつも話している通り腕時計が超高額化によって一部の富裕層に選ばれるようになっている昨今において、そういった方々の年齢層は若くはないはずです。
若くても40代くらいからになると思いますが、やはりそこら辺からは重さも気になり始めます。
そんな中で、わざわざデカアツを積極的に選ぶかというと、ブームや熱狂がないと難しいと考えております。
もちろん、これはあくまで現時点での私個人の見立てに過ぎません。
腕時計の評価というのは、何十年という長い時間をかけて、少しずつ形作られていくものです。
ですが、これまで静寂期を抜けてきたモデルたちの共通点を踏まえる限り、デカ厚時代の腕時計たちにとってはかなり厳しいんじゃないかなぁと言ったところです。
この中にも例外は生まれるかもしれませんよね。
デカ厚と呼ばれたモデルの中にも、比較的シンプルな文字盤や、無駄のないケースワークを持つ一本が、まったくなかったわけではないからですから。
そういった、デカ厚というジャンルの中でも異色の存在だった一本だけが、静寂期を抜けて、あらためて評価される可能性はあるかもしれません。
つまり、ブランド単位で語るのではなく、一本一本のデザインを丁寧に見極めていくことこそが、この先の評価を占う上で、何より大切な視点になってくるのではないでしょうか。