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Article: ダニエル・ロートとはどんな人物でどんな時計を作ってきたのか?

ダニエル・ロートとはどんな人物でどんな時計を作ってきたのか?

こんにちは、ベルモントルの妹尾です。

本日の動画ではダニエル・ロートとはどんな人物でどんな時計を作ってきたのか?

という内容で解説して参ります。

ベルモントルは、金曜日と日曜日だけはフリーでオープンしているんですが、夏場は暑いので、それらの日も予約制でご対応させて頂いております。

9月の半ばにはフリーオープンに戻す予定です。

ショップにある気になる時計がある際にはお気軽に、お問合せ、ご予約お願い致します。

■ 1. ダニエル・ロートとは?

ではまず最初に簡単にダニエルロートが果たした功績をお話しします。

その後に、その時代に何が起こって行ったのか?というのを後のパートでお話ししますね。

ダニエルロート

ダニエル・ロート(Daniel Roth)は、20世紀後半から21世紀初頭にかけて、スイス高級時計界において圧倒的な存在感を放った時計師であり、現代独立時計師の先駆者とも言える人物です。

1945年にフランスで生まれた彼は、幼い頃から機械や精密機構に魅せられ、自然と時計製造の世界へと足を踏み入れました。

彼のキャリアは、単なる職人という枠を超え、ブランドの再興や独自の時計設計哲学の確立にまで広がっていきます。

 

ロートの最大の功績のひとつは、かつて低迷していた歴史的名門ブランド「ブレゲ(Breguet)」の再建に尽力したことです。

1970年代後半から1980年代にかけて、ショーメ(Chaumet)傘下で再始動したブレゲは、時計師としての深い造詣と歴史への敬意を持つ人物を求めていました。

そこで白羽の矢が立ったのがロートでした。

1980年、彼はブレゲに参画し、古典的なブレゲの遺産——ギヨシェダイヤル、ブレゲ針、オフセンターの文字盤、フルート装飾のケースなど——を忠実に再現しつつ、現代の技術でそれらを蘇らせました。

 

特に、ロートが手がけたトゥールビヨンや永久カレンダー、スプリットセコンドといった複雑機構搭載モデルは、機械式時計の芸術性を再評価させるきっかけとなり、ブレゲのブランドイメージを再び高みに押し上げる原動力となりました。

彼の設計には、単に古典を模倣するのではなく、「敬意を払いながら再解釈する」という明確な美意識が貫かれており、それが今日の「モダン・ブレゲ様式」として確立していったんですね。

 

1990年代に入ると、ロートは自身の名前を冠したブランド「Daniel Roth」を創設し、独立時計師としての道を歩み始めます。

その後も、独創的なトノー型ケースや複雑機構、ダブルフェイスなどで時計愛好家の間で注目を集めました。

彼のスタイルは、クラシカルでありながらも一目でそれとわかる個性を持ち、唯一無二の存在として高く評価されています。

 

ダニエル・ロートは、伝統と革新、クラフトマンシップとデザイン性、そのすべてをバランスよく融合させた時計師であり、現在に至るまで彼の影響は多くのブランドや時計師に受け継がれています。

 

■ 2. 修行の始まり:ルクルト(現ジャガー・ルクルト) 在籍期間:1967年ごろ 〜 1973年ごろ(約6年間)

ダニエル・ロートの時計師としての旅路は、スイス高級時計業界の名門「ルクルト(LeCoultre)」、現在のジャガー・ルクルト(Jaeger-LeCoultre)で本格的に始まりました。

在籍期間:1967年ごろ 〜 1973年ごろ(約6年間)です。

ロートにとってここでの修行は、ただの職業訓練ではなく、彼の美意識や技術的思考の礎を築く重要な時間となりました。

 

ルクルトの工房は、複雑機構の製造に特化した“頭脳集団”とも言える存在であり、若きロートはその環境の中で、基礎的なムーブメントの構造から、トゥールビヨン、ミニッツリピーター、永久カレンダーなどの高度な複雑機構まで、体系的かつ実践的に習得していきました。

また、ルクルトでは単なる“組立作業者”としてではなく、設計や改良を考える「技術者」としての視点を養うことが奨励されており、ロートはその教育方針の恩恵を受けた世代のひとりです。

 

とくにこの時期、ルクルトでは長年にわたり「ムーブメント・サプライヤー」として他ブランドにムーブメントを供給していたこともあり、ロートはパテック フィリップやヴァシュロン・コンスタンタン、オーデマ ピゲなどのハイエンドブランド向けの設計基準や仕上げ品質を、直接肌で感じながら学ぶことができました。

これが後に、ブレゲの復興において「ブランドごとのDNAを正しく解釈し、デザインに反映させる」という彼の才能に結びついていきます。

このジャガールクルトと世界3大時計ブランドの関係については、こちらの動画で詳しく解説しておりますので気になる方はこちらの動画もご覧ください⬇️

 

また、ルクルトでの修行時代には、同僚や上司からの技術的な影響だけでなく、「伝統への敬意」と「革新への探究心」という、相反する価値観のバランス感覚も体得していきました。

この“職人でありつつ思想家でもある”というロートの特性は、後に自らのブランドを立ち上げた際にも一貫して現れていくのです。

 

ルクルトでの年月は、彼を名実ともに一流の時計師へと導く最初の大きな一歩でした。

ここで培われた厳格な技術、美意識、そして思考力は、のちのブレゲ再興や自身のブランド立ち上げにおいて、まさに血肉となって活かされることになります。

 

■ 3. 複雑機構の精鋭集団:オーデマ ピゲへ 在籍期間:1973年ごろ 〜 1980年(約7年間)

 

ルクルトで基礎を固めたダニエル・ロートは、その後さらなる飛躍を求めてオーデマ ピゲ(Audemars Piguet)へと活動の場を移します。

在籍期間:1973年ごろ 〜 1980年(約7年間)です。

ここは、時計業界においてもとりわけ複雑機構の名門として知られ、数多くの歴史的傑作を生み出してきたブランドです。

スイス・ル・ブラッシュに本拠を構えるオーデマ ピゲは、創業以来一度も企業買収されず家族経営を貫いてきた、独立系マニュファクチュールの頂点とも言える存在です。

 

ロートが参加したのは、そんなオーデマ ピゲのなかでも優秀な技術者だけが選ばれる「グラン・コンプリケーション(超複雑機構)」部門です。

ここでは、年間数十本しか製造されないトゥールビヨンやミニッツリピーター、パーペチュアルカレンダーといった複数の複雑機構を一つの時計に統合するプロジェクトが進められていました。

こうした超高難度の設計と製造に携わることは、若き時計師にとってこの上ない名誉であり、試練でもあります。

 

オーデマ ピゲでの時間は、ロートにとって「職人から設計者、そして芸術家へ」と自らを進化させる貴重な修行の場となりました。

特に同社の哲学である「美と機能の統合」「装飾と技術の均衡」は、後の彼のデザイン思想にも色濃く影響を与えます。

美しく見せるためのギョーシェやエングレービングに、必ず意味や機能があるという考え方は、ロートの作品に一貫して現れ続ける特徴でもあります。

また、ロートは複雑機構の設計に加えて、ケースデザインや文字盤レイアウトにまでアイデアを持ち込むことが許されていました。

これは、後に彼がブレゲに参画した際に「機構から外装、意匠まで一貫したコンセプト設計」ができる人物として重用される理由のひとつとなります。

この時代に彼が手がけたとされるプロジェクトの詳細は多くが社内秘とされていますが、現存するオーデマ ピゲのアーカイブを見ると、1970年代末から1980年代初頭にかけて登場したグランドコンプリケーションやトゥールビヨン付きモデルには、ロートの影響を指摘する研究者も少なくありません。

 

オーデマ ピゲで得た「超複雑時計の極致を極める技術力」、そして「伝統を尊重しながらも新しい美を生み出す柔軟な感性」。

この二つは、後に訪れる運命の舞台——ブレゲ再建プロジェクトにおいて、彼が最も発揮すべき武器となっていきます。

 

■ 4. 再興プロジェクト:ブレゲに招聘される(1980年〜)

1980年、ダニエル・ロートはそのキャリアにおいて最も重要な転機を迎えます。

パリの高級宝飾メゾン「ショーメ(Chaumet)」が名門ブレゲを買収し、その復活プロジェクトを本格的に始動した際、ロートは新生ブレゲの中心人物としてスカウトされました。

ここで補足説明ですが、1970年にショーメがブレゲを買収して再建開始が始まるので、この1970年の時点でロートが即ブレゲ再建計画に関わった、と思われがちですが、実際には、ショーメの再建は段階的なプロセスで、10年近く準備と模索が続いました。

その上で、「真の再興フェーズ」に突入する1980年に、ロートがキーパーソンとして招聘(しょうへい)されたのです。

よって、ロートはショーメの社員でもなく、あくまで独立した時計に精通した人物というポジションだったんですね。

ロートはこの“空白のブランド”に、創業者アブラアン=ルイ・ブレゲの精神とデザイン哲学を再注入することを決意します。

その後、ショーメはロートを筆頭にル・ブラッシュの工房に職人を集め、スイス製の伝統技術に基づく完全自社生産体制を徐々に築き上げていきました。

この最高プロジェクトの詳細については、前回の動画で詳細を解説しておりますので、気になる方はそちらからご覧ください⬇️

では次に、ダニエルロートがブレゲから外れ独立してからのことを解説します。

 

■ 5. 独立:自身の名を冠した「Daniel Roth」ブランド設立(1989年)

1989年、ダニエル・ロートは時計師としての新たなステージへと歩みを進めます。

ブレゲの再建という偉業を成し遂げた彼は、企業の枠にとらわれず、より自由な発想と創造性をもって理想の時計を生み出したいという情熱に突き動かされ、ついに自身の名を冠したブランド「ダニエルロート/Daniel Roth」を設立します。

このブランドの特徴は、彼自身の職人としての美学と機械への探究心が、極めて高い次元で融合している点にあります。

時計のケースは、彼が好んで用いたエリプティカル(楕円)形状のトノー型です。

オフセンターのサブダイヤルや手彫りのギョーシェ装飾、立体的な針やローマ数字のインデックスなど、クラシカルでありながらどこか未来的な空気をまとっています。

これらは彼がブレゲ時代に培った意匠を、より現代的に再構築したものであり、いわば「現代の芸術作品」としての時計を体現していました。

機構面でも、ロートのこだわりは徹底しています。

トゥールビヨンやパーペチュアルカレンダー、レトログラード表示といった複雑機構を搭載しながら、すべてのパーツを自社アトリエで少量生産しています。

量産を目的とせず、一本一本に魂を込めるような製造体制は、当時の時計業界において異例のスタイルでした。

多くの時計ブランドが、工業的な効率性を重視するなかで、ロートは時計師としての「手の記憶」と「時間をかけることの価値」を守り続けたのです。

 

1990年代には、特に熱心なコレクターや時計愛好家たちの間で評価が高まり、ダニエル・ロートの時計は「独立系ブランドの金字塔」としての地位を確立していきます。

国際的な時計フェアでも高い注目を集め、その独創性と完成度に対して、専門家からも賞賛の声が寄せられました。

しかし2000年、経営の拡大とともにブランドは投資家主導の運営へと移行し、ダニエル・ロート本人は徐々に経営の第一線から退くことになります。

ではここからは、ダニエルロートというブランドがどのようになって行ったのか?という近代の話について解説して参ります。

 

■ 6. ブルガリ傘下へ、そしてブランド消滅

2000年、ダニエル・ロートが創業した独立ブランド「Daniel Roth」は、イタリアの名門ジュエラー、ブルガリ(BVLGARI)の傘下に入ることになります。

当時のブルガリは、時計部門の強化と自社製造力の確立を急いでおり、すでに買収していた時計ブランド「ジェラルド・ジェンタ(Gerald Genta)」とともに、ダニエル・ロートのアトリエとノウハウを手中に収めることで、複雑時計の製造技術を一気に底上げする狙いがありました。

 

買収後、ブルガリは「ジェラルドジェンタ/Gerald Genta」「Daniel Roth」の両ブランドを自社内に取り込みながら、彼らの技術とデザイン資産を活用して複雑機構を搭載したモデルの開発を進めていきます。

とくにトゥールビヨンやミニッツリピーターなど、高度な複雑時計の製造において、ル・サンティエの旧工房(元Daniel Rothの拠点)は中核的な役割を果たしました。

一方で、ブランド名としての「Daniel Roth」は次第に表舞台から姿を消していきます。

2000年代半ばにはブルガリのロゴを冠した複雑時計の中に、その技術や意匠が受け継がれていたものの、独立したブランドとしての展開は縮小され、2009年頃には実質的にブランドとしての「Daniel Roth」は終了します。

これはブルガリが自社ブランドに集中する戦略を選んだこと、そしてLVMHグループ傘下入りを見据えて時計部門の再編を進めていたことに起因します。

2011年、ブルガリは正式にLVMHグループに買収され、その直後から時計部門の整理が進行します。

Gerald GentaとDaniel Rothのブランド名は消滅し、その技術力と人材、アトリエは「ブルガリ・オート・オルロジュリー」として一本化されていきました。

 

こうして「Daniel Roth」というブランドは、約20年の短い歴史のなかで静かに終焉を迎えることとなります。

しかし、その哲学や美学は「オクト フィニッシモ」や高複雑モデルの中に確かに息づいており、現在でも一部の愛好家からは「最初期のDaniel Rothこそ真の芸術作品」として高く評価されています。

時計業界において、ブランド名が消えても職人の技術や理念が生き続けることは珍しくありません。

レマニアとかフレデリックピゲもそうですよね。

これら2つの会社についてご存知でない方は、こちらの動画からご覧ください⬇️

どちらも超優秀なムーブメント製造ブランドです。

話を戻しまして、ダニエル・ロートの残した作品と哲学も、現代の高級時計づくりの礎の一部として、確かに受け継がれているのです。

 

 

 

■ 7. 再びスポットライトへ:2023年の復活

ブルガリ傘下でブランド「Daniel Roth」の名が消えてから十数年、時計界におけるダニエル・ロートの名前は、過去の偉業として語られることがほとんどになっていました。

しかし2023年、その「伝説の時計師」が再び表舞台に静かに帰ってきます。

独立時計師としての第二章が始まったのです。

この復活は、ルイ・ヴィトン(LVMH)傘下の「ラ・ファブリク・デュ・タン(La Fabrique du Temps Louis Vuitton)」が中心となって主導したプロジェクトであり、デュタンは複雑機構ムーブメントの開発と製造をしている工房ですね。

ただし、この2回目の復活においては「ビジネスとしてのブランド復活」というよりも、時計師本人の美学と技術の結晶を極めて限られた数で届ける“工房スタイル”を強調しています。

つまり、量産ではなく、1本1本にロート本人の哲学と手が加えられた、真の意味での“独立時計師”の復活であり、かつ年数十本以下の超少量生産で運営されます。

初期復活モデルとして発表されたのは、ロートの代名詞とも言える「トゥールビヨン」を搭載したモデルで、象徴的なトノー型ケースやクラシカルなギョーシェダイヤルなど、かつてのDaniel Rothブランドを象徴するディテールが緻密に再現されていました。

それは決して懐古的な模倣ではなく、現代技術によって進化した“ロート・スタイル”の再構築でした。

補足説明なのですが、ロートさんは80歳でまだ存命なのですが、流石に時計の製造には着手出来ませんので、デュタンがロートさんが独立した最初の頃のモデルを現代的にアレンジしていると解釈してください。

話を戻しまして、この復活には、現在の市場環境も追い風となっています。

近年の高級時計市場では、ロレックスやパテック・フィリップといったビッグネームに飽き足らず、“本物の職人の手による時計”を求めるコレクターや投資家が増えています。

かつてのDaniel Rothの初期モデル(1989年から1994年ごろまでに製造されたオリジナル期のモデル)はオークション市場でも再評価が進み、価格も着実に上昇傾向にあります。

そうした時代の機運とともに、ダニエル・ロートの再登場は、多くの目利きたちの注目を集めているのです。

現在のダニエルロートは、まさに“選ばれた者だけが所有できる現代の工芸品”であり、それは彼が最初に目指していた「クラシックと革新の融合」というビジョンの最終形かもしれません。

「Daniel Roth」という名前は、ブレゲのように一度消えてなお、職人の信念と市場の要請により再び蘇った稀有なブランドなのです。

そして、ここまで動画をご覧になってる方であれば説明するまでもありませんが、ただ単にブランドだけを追い求めるだけではなく、そのブランドがどういう歴史を持っていて、どんな哲学でそれが作られているのか?

というのを語れる人になって欲しいなぁと考えております。



■ 8. まとめ:ロートが残した時計界への貢献

ダニエル・ロートは、時計界における「伝統の継承者」であると同時に、「革新の旗手」でもありました。

ブレゲにおいて彼が復活させたクラシックな美学は、現代の高級時計に再び“詩的な品格”を取り戻す礎となり、今日のブレゲ様式の原型を築きました。

 

さらに彼は、自身のブランドでトノー型ケースや複雑機構、二面構造などの斬新なアイデアを具現化し、独立時計師という選択肢の可能性を業界に示しました。

そのスタンスは、後続の独立時計師たちに大きな影響を与えています。

 

ロートの時計には常に「人の手による温かさ」と「設計者の哲学」が宿っており、大量生産には決して真似できない価値がありました。

名声や流行にとらわれず、時計と真摯に向き合い続けた彼の姿勢こそが、現代時計界において最も希少で、本質的な“貢献”といえるでしょう。

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