スイス時計産業がクォーツショックから生き延びた本当の理由
こんにちは、ベルモントルの妹尾です。
本日の動画では、『スイス時計産業がクォーツショックから生き延びた本当の理由』という内容で解説して参ります。
1969年に生まれたSEIKOのアストロン!
その圧倒的強者の前に、滅ぶこととなってしまったブランドはたくさんありました。
ただ、その危機の中で生き延びたブランドたちは、実際に今も続いてるしそこには共通する理由がありました。
そして今、その理由こそが、ヴィンテージウォッチが改めて注目される時代の根拠になっています。
今日はこのクオーツショックの歴史をそれぞれのブランドの視点で掘り下げながら、腕時計という存在の本質に迫っていきます。
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それでは話を進めて参ります。
クォーツショックとは何だったのか?
まず、クォーツショックという出来事の全体像を掴んでおきます。
1969年、セイコーが世界初のクォーツ腕時計「アストロン」を発売したとき、スイスの時計産業は自分たちが何に直面しているのかを、まだ正確には理解していませんでした。
説明するまでもありませんが、クォーツウォッチは、機械式に比べて精度がはるかに高く、構造がシンプルで製造コストが低いという特徴があります。
しかも電池で動くため、ゼンマイを巻く手間もありません。
消費者にとっては、より安く、より正確で、より手軽な腕時計が手に入るようになったわけです。
そして、日本のセイコー・シチズン・カシオといったブランドが、この技術を武器に世界市場へ一気に攻め込んできたんですよね。
ですが、実はスイスも、指をくわえて見ていたわけではありませんでした。
危機の到来を察知したスイスの腕時計メーカーは、ロレックス・オメガ・パテック フィリップ・IWCなど約20のブランドが結集し、CEH(サントル・エレクトロニック・オルロジェ/Centre Electronique Horloger)という共同開発機構を設立しました。
そしてスイス製クォーツムーブメント「ベータ21」を生み出し、日本への対抗策を打とうとしたんですよね。
ところがこれが、商業的にはほとんど成功しませんでした。
ベータ21は技術的には優れていたものの、製造コストが高く、日本製の安価なクォーツ腕時計には価格で太刀打ちできなかったんです。
ちなみにスイスの昔の腕時計あるあるですが、このベータ21のモデルはめっちゃ少ないので今となっては高額で取引されています。
話を戻しまして、そしてスイスが直面したもう一つの問題は、産業の構造そのものにありました。
何世紀にもわたって機械式腕時計を作り続けてきたスイスには、時計職人・部品メーカー・組立工房という精緻なエコシステムが根付いていました。
これは機械式腕時計においては圧倒的な強みでしたが、クォーツという新技術への転換を図ろうとすると、むしろその深さが足かせになってしまったんですよね。
伝統と技術の蓄積が、変化への対応を遅らせたのでした。
2年前の話ですが、フォルクスワーゲンも同じような伝統的な職人に頼った車づくりをしていましたが、これからはEVだ!って言ってその人たちを切ってしまって、今となってはまたガソリン車に戻ってしまって、ガソリンエンジンのノウハウが空洞化してしまってますよね。
まぁ、全部が全部新しいものに生まれ変わるってわけではないということですよね。
話を戻しまして、結果として、スイスの腕時計産業が受けたダメージは壊滅的なものになりました。
1970年に8,400万本あったスイスの輸出本数は、10年後の1983年には3,000万本以下へと激減しました。
そして13年間で、スイスの時計産業全体の雇用の約3分の2が失われたと言われいます。
数字だけを見ても、この危機がいかに深刻だったかが伝わってくるのではないでしょうか。
では次に、この煽りの影響を最も受けた「消えていったブランドたち!」という内容で解説して参ります。
② 消えていったブランドたち
クォーツショックが本当に恐ろしかったのは、単に売上が落ちたということではなく、長い歴史を持つ名門ブランドでさえ、存続の危機に立たされたという点なんですよね。
最も深刻なダメージを受けたのは、中低価格帯の機械式腕時計を作っていたブランドたちでした。
これらのブランドが提供していた価値は、突き詰めれば「手頃な価格で正確に時間を知ること」でした。
ところがクォーツ腕時計は、その価値をより安く、より正確に提供できてしまったわけです。
よって、中低価格帯の機械式腕時計は、存在する理由そのものを失ってしまったんですよね。
それらのブランドはと言いますと、ウォルサム・カラベル/キャラベル・エルジンといった、かつて市場を支えていたブランドがこの時期に相次いで姿を消していきました。
そして驚くべきことに、中低価格帯だけでなく、歴史ある名門ブランドも同様の運命をたどったケースがありました。
ユニバーサル・ジュネーブは、その代表的な例です。
1894年創業のこのブランドは、かつてポール・ニューマンやマレーネ・ディートリッヒといった著名人に愛用された由緒あるブランドでした。
しかしクォーツショックの波にのみ込まれ、ブランドとしての実質的な活動はほぼ停止状態に陥りました。
ですが、ほんのここ数年の出来事ですがブライトリングのグループに入りましたよね。
そのことで、再度復活の兆しが見えてるのはとても良いことだと思いますね。
エニカーも同様です。
1854年創業のこのスイスブランドは、1966年にスターリング・モスが運転するロータスにエニカーのクロノグラフが搭載されたことで知られる、モータースポーツとのゆかりが深いメゾンでした。
しかしクォーツショックを乗り越えることができず、市場から姿を消しました。
そして、最も意外なケースがブレゲかもしれません。
1775年創業のブレゲは、トゥールビヨンや自動巻き機構など、現代でも使われる多くの機構を発明した、腕時計史上最も重要なブランドの一つです。
ところがクォーツショックはこのブレゲさえも直撃し、複数回の身売りを経て破綻寸前にまで追い込まれました。
ブレゲが安定を取り戻したのは、1999年にスウォッチグループに買収されてからのことなんですよね。
あのブレゲでさえ、こうした運命をたどったということは、クォーツショックがいかに容赦のない嵐だったかを物語っています。
ブレゲのオーナーが次々と変わって行った歴史については、こちらの動画で詳しく解説していますので、気になる方は是非ご覧ください⬇️
話を戻しましてここで一つ、大切なことをお伝えしておきたいんですよね。
消えていったブランドたちは、決して腕時計作りの技術や情熱が劣っていたわけではありません。
むしろ、長い歴史と深い職人技を持つブランドほど、機械式という土俵に深く根を張っていたぶん、新しい技術への転換が難しかった側面があります。
消えていったブランドたちは、ある意味で機械式腕時計という文化の純粋な守護者だったともいえるんですよね。
ただ、純粋さだけでは、あの嵐を生き抜くことはできなかった。
これは腕時計というよりは、経営の話に通づるものがあるのかもしれませんね。
では次に、その反面、生き延びたブランドは何が違ったのか?ということついて解説して参ります。
生き延びたブランドは何が違ったのか?
消えていったブランドがある一方で、深刻なダメージを受けながらも生き延びたブランドたちがいます。
代表的なのがオメガ・ロンジン・ホイヤー・IWC・ブライトリングですね。
これらのブランドに共通していたのは何だったのか。
ここを掘り下げていきます。
結論から言えば、生き延びたブランドたちは「道具としての腕時計」という土俵から降りて、「物語としての腕時計」という新しい軸を作り上げたんですよね。
精度・価格・利便性でクォーツに勝てないなら、そこで戦うのをやめる。
代わりに、そのブランドにしか語れない固有の文脈を前面に出す。
この転換こそが、生死を分けた本質的な違いでした。
オメガの場合、その軸になったのは宇宙という物語です。
1969年、セイコーがアストロンを発売したまさにその年に、アポロ11号が月面着陸を果たしました。
バズ・オルドリンの手首にはオメガのスピードマスターがありました。
「月に行った腕時計」という事実は、どんな精度のスペックよりも強力なブランドストーリーになったんですよね。
オメガはNASAとの関係を徹底的にブランドの核に据え、「探検・挑戦・人類の偉業」という文脈で腕時計を語り直しました。
これがオメガを中高級ブランドとして再浮上させた原動力になっています。
ホイヤー(現TAG Heuer)が選んだのは、モータースポーツという文脈です。
1969年に発売したモナコは、翌1971年の映画『ル・マン』でスティーブ・マックイーンが着用したことで一躍世界的な知名度を得ました。
クォーツショックが本格化する前夜に、すでにこれほど強力なブランドストーリーを持っていたことが、ホイヤーが嵐を乗り越えられた大きな理由の一つだったんですよね。
ホイヤーの場合は、クオーツショックが本格化する前に知名度を得ていたので、その延長線上で生き延びることが出来たと言えるでしょう。
IWCは、機械式コンプリケーションへの回帰という道を選びました。
クォーツ全盛の時代に、あえて複雑機構を持つ機械式腕時計に注力したんですが、これは一見すると時代に逆行するような判断に捉えられたはずです。
ですが、これが結果的にIWCをエンジニアリングとクラフツマンシップのブランドとして際立たせたんですよね。
1985年に発表したダ・ヴィンチ・パーペチュアルカレンダーは、クォーツ時代における機械式の意地を見せた一本として、コレクターの間で今も高く評価されています。
ブライトリングはパイロット・航空という極めて特定のニッチに絞り込みました。
コックピットの計器をモチーフにした文字盤、航空計算に使える回転ベゼル。
「本物のパイロットが使う腕時計」という文脈は、クォーツには代替できないアイデンティティになったんですよね。
そしてこれらのブランドを財務的に支えたのが、スウォッチグループという仕組みでした。
経営コンサルタントのニコラス・G・ハイエックは、苦境に立つスイスの腕時計メーカーを一つのグループに統合するという構想を実行に移しました。
そして1983年、グループの資金源として生み出したのがスウォッチです。
プラスチックケース・51個の部品・全自動組立という徹底したコスト削減で、50スイスフランという低価格を実現したスウォッチは、世界的なブームを巻き起こしました。
このスウォッチの役割があんまり語られませんが、このスウォッチっていうチープな時計が爆発的に売れたことで、スウォッチは利益を稼ぎ、その利益を使ってオメガ・ロンジン・ブレゲといった高級ブランドの立て直しを行ったんですよね。
いわば、大衆向けのクォーツ腕時計が、高級機械式腕時計を救ったという逆説的な構図です。
生き延びたブランドたちに共通しているのは、クォーツという新技術を「敵」として正面から戦うのではなく、自分たちにしかできないことに徹底的に集中したということです。
道具としての機能では負けを認め、その代わりに物語・文化・固有の文脈という、クォーツには絶対に奪えない価値を前面に出した。
この判断こそが、彼らを生き延びさせた本質だったといえるのです。
では次に、皆様が気になってるであろう、その時ロレックスは何をしていたのか?
という内容で解説します。
ロレックスという特異なケース
生き延びたブランドたちの中でも、ロレックスのケースは特別に取り上げる価値があります。
なぜなら、ロレックスの対応は他のブランドとは一線を画す、非常に独特なものだったからなんですよね。
まず押さえておきたいのは、ロレックスもクォーツショックの影響を免れてはいなかったという事実です。
当時のロレックスは確かに強固なブランド力を持っていましたが、だからといってクォーツの波を無視できるほど盤石ではありませんでした。
危機の到来を察知したロレックスは、前の見出しでお話しした共同開発機構CEHに参加し、ベータ21の開発に加わりました。
そしてベータ21を搭載したRef.5100を1970年に発売しています。
ところがこのモデル、わずか約1,000本しか製造されずに廃盤になってしまうんですよね。
技術的には評価されたものの、今ではそのサイズは普通ですが、当時はムーブメントのサイズが大きすぎて39mmという特殊なケースが必要になり、ロレックスらしいデザインとの整合性が取れなかったことが主な理由でした。
この早期撤退を経て、ロレックスは独自路線へと舵を切ります。
自社でクォーツムーブメントを開発し、1977年に満を持して発売したのがオイスタークォーツです。
このモデルは、ロレックスが生み出した唯一のクォーツコレクションとして、2003年まで製造され続けました。
ただ、ロレックスが他のブランドと決定的に違ったのは、もう一点あります。
それは、クォーツ腕時計を発売しながらも、機械式腕時計の生産を止めないことを明言し続けたという点です。
オイスタークォーツはあくまでラインナップへの追加であって、機械式からの撤退ではない!。
ロレックスはこの姿勢を終始崩しませんでした。
クォーツという技術に迎合しながらも、機械式という本質を手放さない。
この二刀流ともいえる判断が、ロレックスをクォーツショックの波の中で独自の立ち位置に置いたんですよね。
さっきの車の話に戻りますが、この戦略をとっていたのがトヨタであって、トヨタは全方位戦略を掲げた結果、今も世界自動車販売台数1位に君臨し続けていますよね。
そしてロレックスが生き延びた、おそらく最大の理由がマーケティング戦略の転換です。
クォーツショックを境に、ロレックスは腕時計を「精度の高い道具」として語るのをやめ、「投資・成果の象徴・世代を超えて受け継がれる遺産」として語り直しました。
エベレスト初登頂へのスポンサーシップ、ル・マンとの関係、王室や著名人との結びつき。
これらを通じて「ロレックスを持つことの意味」を時間の正確さとはまったく別の次元で構築していったんですよね。
この語り直しによって、クォーツがいくら正確でも、ロレックスの腕時計が持つ意味とは土俵が異なるという認識が市場に根付いていきました。
今日、ロレックスは機械式腕時計ブランドとして世界最大の売上を誇り、年間推定100〜120万本を超える生産量を持つに至っています。
機械式への信念を持ち続けたロレックスにとって、クォーツラインは過渡期のモデルであって、その使命を果たして役目を終えたんですよね。
今ではオイスタークォーツは、クォーツショックという時代の証人として、コレクターの間で静かな人気を集めています。
では次に、ここも見逃すことが出来ない「雲上三ブランドはなぜ別格だったのか?」ということについて解説します。
⑤ 雲上三ブランドはなぜ別格だったのか
パテック フィリップ・オーデマ ピゲ・ヴァシュロン コンスタンタン。この3ブランドが「雲上」と呼ばれる所以は、単に価格が高いからでも、歴史が長いからでもありません。
クォーツショックという、スイス時計産業史上最大の嵐の中で見せた姿勢こそが、この三ブランドを別格たらしめている本質的な理由なんですよね。
まず三者に共通する事実をお伝えします。
クォーツショックが猛威を振るった時代、多くのブランドが生産を止めたり、再編を余儀なくされたりしました。
けれどパテック・AP・ヴァシュロンは止まりませんでした。
採算が取れない状況でも工房を維持し、機械式ムーブメントを作り続けたのです。
この「止まらなかった」という事実が、三大ブランドの別格性の根拠の一つになっているんですよね。
ただ、その経緯は三者それぞれまったく異なります。個別に掘り下げていきます。
パテック フィリップ
パテックはクォーツという技術に対して、正面からアプローチを取りました。
CEHの共同開発に参加し、ベータ21を搭載したRef.3587を1970年に発売しています。
当時の価格は3,500ドルで、これはパテックの機械式名作Ref.2499の3,200ドルをも上回る高額設定でした。
クォーツだから安い、という常識を最初から覆すような価格設定だったんですよね。
ところがこのモデルも商業的には苦戦し、クォーツラインはほどなく縮小されていきます。
パテックが生き延びた本質的な理由は、 1976年に発売されたノーチラス Ref.3700にあります。
すでに皆様ご存知だと思われますが、初代のノーチラスは42mmという当時としては大型のステンレスケースに丸みを帯びた八角形のベゼルと一体型ブレスレットを持つ、パテックがそれまで作ったことのないタイプの腕時計でした。
発売当初は賛否両論を巻き起こしましたが、時代が進むにつれてこの大きさも受け入れられるようになり、今となってはパテックの顔となるモデルにまでなっていますよね。
オーデマ ピゲ
APのケースは、三者の中で最もドラマティックです。
クォーツショックのど真ん中、1972年に発売したロイヤルオークという一本が、その後の腕時計産業の歴史を根本から変えてしまったんですよね。
当時のAPは、クォーツの波に押されて従来のドレスウォッチだけで戦い続けることに限界を感じていました。
そこでAPの当時の社長ジョルジュ・ゴレイは、デザイナーのジェラルド・ジェンタに「まったく新しい腕時計」の設計を依頼しました。
そうして生まれたのが、八角形のベゼル・一体型ステンレスブレスレット・タペストリー文字盤を持つロイヤルオークです。
このモデルの誕生は当初、業界からは「正気か」という声が上がったと言われています。
ところがこの常識破りの一本が、やがてラグジュアリースポーツウォッチという全く新しいカテゴリーを生み出す起点になりました。
今日では、ロレックスからカルティエまで、ほぼすべての主要ブランドがラグジュアリースポーツウォッチを持っていますが、ロイヤルオークなしにはそのどれも存在しなかったかもしれません。
クォーツショックという絶体絶命の危機の中で生まれた一本が、現代の腕時計市場の地図そのものを書き換えてしまったんですよね。
ヴァシュロン コンスタンタン
1977年、ヴァシュロン コンスタンタンは創業222周年を記念して、クォーツショックの真っ只中にRef.222を発売しました。
ロイヤルオーク(1972年)・ノーチラス(1976年)に続く形で、ラグジュアリースポーツウォッチという新しいカテゴリへの参入を試みたんですよね。
222はジェラルド・ジェンタではなく、ヨルグ・ハイゼック(Jorg Hysek)というデザイナーによるものです。
しかし222はロイヤルオークやノーチラスと異なり、困難な時期を乗り越えるまで販売を続けることなく、1984〜1985年頃に生産を終了しました。
生産数はわずか約500〜800本にとどまったと言われいます。
そして苦境が続き、1996年にリシュモングループに買収されたことで経営が安定し、同年、222の精神的後継となるオーバーシーズを発売しました。
クォーツ危機が終息し機械式腕時計の復興が始まる潮目に合わせた、この1996年のオーバーシーズ発売こそが、ヴァシュロンが本当に盛り返した転換点だったんですよね。
三者を改めて眺めると、パテックとAPは「新しいカテゴリーを生み出し、ヴァシュロンは「連続性を守り抜いた」という、それぞれまったく異なる生存の方法を選んだことが分かります。
ただ共通しているのは、どれだけ苦しくても機械式腕時計への信念を手放さなかったということです。
そしてその信念が、今日の「別格」という評価の根拠になっているんですよね。
ここまで、クォーツショックという嵐の中でスイスの時計産業に何が起きたのかを掘り下げてきました。
消えていったブランド、生き延びたブランド、そして別格であり続けたブランド。
その明暗を分けたのは、技術力でも規模でも歴史の長さでもありませんでした。
「道具としての腕時計」という土俵から降り、「文化・物語・審美性」という別の場所に立てたかどうか。その一点だったんですよね。
そしてこの歴史が教えてくれることは、今の腕時計選びにも直結しています。
どれだけ時代が変わっても、本当に価値のある一本というのは、流行や相場の外側に立っているものです。
半世紀の嵐を生き抜いてきたブランドの腕時計が今も輝いているのは、その証明ではないでしょうか。
ベルモントルでは、こうした背景や物語も含めて腕時計を選びたい方に向けて、一本一本を丁寧にご紹介しています。
今日の動画が、腕時計という世界をより深く楽しむきっかけになれば嬉しいです。