エボーシュSAと『ETA』の関係とSSIHとASUAGの合併の歴史
こんにちは、ベルモントルの妹尾です😊
本日の動画では『エボーシュSAと『ETA』の関係とSSIHとASUAGの合併の歴史』という内容で解説して参ります。
1920年代から80年代の話であることと、ムーブメントの話なのでちょっとつまらないかもしれませんが、現代的な置き換えと私の思想を踏まえて話すので、かなり分かりやすくなってるはずです。
ここを抑えておけば、なんでオメガはティソとSSIHを組んだのか?
なんでロンジンがスウォッチにいるのか?
というのが分かるし、ETAについては再度その凄さを理解できるはずなので、是非とも最後までお付き合いくださいませ。
ベルモントルは、予約制でご対応させて頂いておりますので、ショップのカテゴリーバナーにある『来店予約』からご予約をお願い致します。
それでは早速やって参りましょう。
エボーシュSAの成り立ち
エボーシュSAは1926年に設立させます。
最初から意味不明だと思いますので、ここまでを分解するとまずエボーシュとはムーブメントだけを製造する会社のことを言います。
今は基本的には自社開発ムーブメントになっていますが昔は、ムーブメントを作る会社があって、それをそれぞれのブランドが購入して自社の時計に乗せている。って構図だったんですね。
そしてエボーシュSAって何かっていいいますと、スイスのムーブメント統括企業体です。
この『スイスのムーブメント統括企業体』って何やねん?
って話だと思いますので、ここを解説します。
統括企業体なので、現代的に分かりやすく言い表すと、バンダイとナムコが合体してバンダイナムコ、スクエアとエニックスが合体してスクエアエニックス、タカラとトミーが合体してタカラトミーみたいな感じなのですが、それのもっとでかいバージョンです。
ではなんで1926年にスイスのムーブメント統括企業体を作る必要があったのでしょうか?
まずそれ以前のスイスというのは、雪と氷に閉ざされる長い冬の間、農家、酪農家達は家に籠ることになるので、自宅内で作業が可能な内職が根付いていくことになります。
それが時計の製造なのですが、パーツを作るグループ、ムーブメントを作るグループ、それらを合体させて完成品を作るグループといった分業体制で作られていくことになります。
ただし、そういった現象が国ぐるみで実行されるとどうなるかと言いますと、グループが乱立し(これですね当時は1000社程度あったそうです)各社が価格競争・品質競争・納期競争を行い、市場が無秩序に荒れていったのでした。
その結果、各社の利益は減り、不良品率が高くなり、ブランドの信頼失墜につながる。
外国(特にアメリカ)との競争に耐えられない体質になり、負のスパイラルに陥っていたのです。
そこで当時のスイスのエースが3人立ち上がります。
それがフォンテンメロン、アドルフシールド、A.ミッシェル社です。

そんな中で誕生したのが、このエース3社を筆頭としたエボーシュSAというムーブメント統括企業体だったんですね。
その目的を達成するために、彼らはこう言いました。
目的 | 内容 |
---|---|
1.価格競争の是正 | 無意味なダンピング合戦をやめる |
2.技術標準化 | 規格統一・部品の互換性・品質の安定 |
3.生産計画の統合 | 同一設計での大量生産による効率化 |
4.海外競合に対抗 | 特にアメリカ(エルジン、ウォルサムなど)やドイツに対抗する体力をつける |
5.研究開発の継承 | 技術者・設備・ノウハウを維持するための集中投資先をつくる |
このエボーシュSAの発言によって、スイスにあった実力のあるあるエボーシュブランドが、『我々もエボーシュSA様についていきます!これからはスイスの時計業界はライバルではなく、仲間となり一緒にアメリとかドイツの野郎を駆逐してやりましょう!』
って言って、仲間が増えていくことになります。
その仲間が下記になります。
加盟企業名(略称) | 正式名称 | 特徴・補足 |
---|---|---|
ア・シールド社 | A. Schild SA (Grenchen) | 実用的な手巻き・自動巻ムーブメントを供給。ETAと並ぶ大手ムーブ供給源。 |
フォンテンメロン社 | Fabrique d’Horlogerie de Fontainemelon (FHF) | 世界初のエボーシュ専門メーカー。Cal.96など、汎用ムーブ多数製造。 |
ランデロン社 | Fabrique d’Ébauches Landeron SA | 手頃な価格のクロノグラフムーブ(Cal.48など)を供給。Venusと競合関係にあった。 |
ア・ミシェル社 | A. Michel SA | 小型手巻きムーブメントを得意とした工房。ジュエリーウォッチ向けにも展開。 |
フェルサ社 | Felsa SA | 自動巻機構の先駆者。Cal.4007などの両方向巻き上げムーブで有名。 |
ベルノワーズ社 | Bernoise SA | 廉価なピンレバー式など、ローエンド市場向けムーブメントの製造。 |
ヴィーナス社 | Fabrique d’Ébauches Venus SA | 高品質クロノグラフムーブメント(Cal.170/175/178)で名声を築く。 |
ユニタス社 | Unitas SA (Tramelan) | 大型手巻ムーブメント(Cal.6497/6498)で有名。今も手巻ドレスウォッチに多く採用。 |
フルリエ社 | Fabrique d’Horlogerie de Fleurier | 高級懐中時計や工芸的装飾ムーブメントを生産していた地方工房。 |
プゾー社 | Peseux SA (Neuchâtel) | 薄型・高精度な手巻きムーブメント(Cal.260、7040など)で知られる。 |
レユニ社 | Ateliers Réunis | パテックフィリップの組立部門としても知られる。高品質な仕上げが特徴。 |
べトラッシュ社 | Bettlach SA | 廉価なピンレバー式のムーブメントを大量生産し、実用時計市場を支えた。 |
シェザール社 | Chézard SA | デッドビート(スモールセコンドが1秒ずつ刻む)機構のムーブメントで知られる。 |
デルビ社 | Derby SA | 廉価ムーブメントの製造に従事。現存情報は少ないがローエンド供給の一翼を担った。 |
ヌーベル・ファブリーク社 | Nouvelle Fabrique SA | 地方小工房。小径ムーブメントの供給や一部特殊設計で知られていた。 |
バルジュー社 | Fabrique d’Ébauches Valjoux SA | クロノグラフの最高峰Cal.23/72/7750を開発。ETAに統合され現在も現役。 |
代表的なブランドで言えば、ユニタス、プゾー、ランデロン、ヴィーナス、バルジューなどでしょう。
後発ではありましたが、その実力が認められユニタスとプゾーは「五大柱」として、エボーシュSAの技術的中核を担っていました。
他のブランドについての詳細は、割愛しますので詳細をご希望の場合は、ここでストップしてみるか概要欄にブログを入れておきますので、そちらの方が見やすいかもしれません。
このように各社は独自の専門性を持ちながら、価格競争や供給過多を避けるために、生産調整やパーツ共有などで協力していました。
ここまでが、エボーシュSAの成り立ちのお話しであり、ここからASUAGの話に続けていきます。
世界大恐慌とASUAG
業界の再編を行ったことで、スイスのエボーシュブランドはスリム化し、最強に進んでいきそうだったのですが、そうはいきませんでした。
それが1929年に起きた世界大恐慌であり、スイスのエボーシュブランドも当然のことながら、その煽りを受けることとなります。
最強になったはずのエボーシュSAでさえも、大恐慌の波に抗うことが出来ず、ほとんどの会社が一気に業績が落ちていくことになります。
そこで1931年にASUAG(Allgemeine Schweizerische Uhrenindustrie AG/スイス時計工業合同会社)といって政府とスイス銀行が出資して出来上がった半官半民のグループが誕生します。
これはスイス時計産業の全体的な危機管理と資金注入を目的とした「持株会社」であり、要するに、ASUAGがエボーシュSAの財務を支えましょう!
というスイスの時計産業を、守るために誕生したグループなんですね。
この時点で、エボーシュSA社の上にASUAGというグループが乗っかってくる構図が完成します。

一旦ここまでがですね、エボーシュSAの成り立ちとASUAGという補佐的な会社の役割の解説となります。
ETA社がエボーシュSAへ加入
ETAってあの無敵のエボーシュですよね!?
そういう思いがある方は多いと思いますが、初期のエボーシュSA社には入っていませんでした。
その理由は、当時のETAはエボーシュではなかったからです。
今でこそ、エボーシュとして認識されていますが、当時はエテルナという時計ブランドの中のムーブメント製造部門であり、エテルナという時計組み立てまで完結できるブランドはエボーシュSAに入れなかったんですね。
だからエボーシュSA側からすれば、組み立てまで出来るんなら、それはエボーシュSAのルールに反してるから、君は入れないよ・・・・って感じです。
エテルナっていう会社については、ベルモントルとは趣旨が違うので、別チャンネルのヴィンテージウォッチライフで詳しく解説していますので気になる方はこちらの動画もご覧ください⬇️
現在のエテルナは、中国っていう爆発する車で有名なBYDとか、ミャンマーの地震で遠く離れてるのに、綺麗に倒壊する建物を建てることで有名な中鉄十局っていうやばい国に買収されたので、やばいブランドになりましたが、昔のエテルナは素晴らしい会社なので、そこらへんは間違えないようにしましょう。
話を戻しまして、じゃあなんでムーブも作れて完成品も作れるエテルナ&ETAはエボーシュSAに入りたかったのかを解説します。
1932年、スイスの老舗時計ブランド「エテルナ」は、自社のムーブメント製造部門を分社化し、「ETA SA」として独立させました。
この決断の背景には、前述したスイス時計産業が抱えていた課題と再編の流れがあります。
当初、ETAはエテルナ内部の製造部門であったため、この組織には参加していませんでした。
しかし世界恐慌をきっかけに当時800人の従業員を持つエテルナは、その影響もかなり大きく、再編の波に乗る方が合理的であることを理解していました。
そのため、エテルナは「ムーブメント供給を事業として成立させ、他社への販売で収益を多角化したい」という狙いもあり、ETAを独立させてエボーシュSAに参加させたのでした。
これにより、エテルナは完成時計の製造に集中できて、ETAは業界内での信頼と販路を獲得し、2つの事業で収益を上げることが出来るようになったのです。
ここまではETAがエボーシュSAに入るまでの話です。
では、ここからは、同じ時代にグループを結成したSSIHについて解説します。
オメガとティソとレマニアのSSIH
最終的にはETAが最強って話に繋がっていくので、そのためにはSSIHも必要なのでSSIHについても解説します。
ティソは日本ではそこまで有名ではないのですが、歴史を振り返れば技術力もあったし、素晴らしいモデルをたくさん生み出してきたブランドです。
では 1930年に話を戻します。
そもそもこれらのブランドは、1920年代から共同でムーブメントを設計製造しており、協力関係にありました。
なんでティソ!?って思うのですが、オメガは「ブラン兄弟」、ティソは「ティソ一族」によって経営されており、経営者同士の個人的な信頼関係や思想の共有が、連携を後押ししたといわれています。
世界恐慌真っ只中ではあり、オメガもティソも単体では生き残ることができない状況でした。
よって、1930年には2社で共同体を作る必要性に迫られた結果SSIHが誕生したのです。

メインの目的は、エボーシュSAと同じで生産を効率化し、コストを抑えることですが、違うところは、SSIHは完成品ブランド同士で合体したことです。
完成品ブランド同士で合体したことで、それぞれのポジションに合わせた製品展開を整える必要がありました。
というかそれを見据えて合併したのですが、要するにブランド同士がバッティングしてはいけないんですよね。
生産を効率化するわけなので、例えばロレックスとオメガだとほとんど同じ方向性の時計になってしまい、共通化しても売り上げに大きな影響を与えません。
要するに、同じブランド力だとすればどっちか片方しか売れないということですよね。
よって、オメガは中堅ブランドのティソを選んだし、ティソも上位ブランドのオメガをパートナーに選ぶことで、バッティングを避けて、効率化を目指したんですね。
ブランド役割を与えるのであれば、オメガは高級路線、クロノメーター、国際的展開でティソはミドルレンジ、若者・実用路線って感じですね。
「上」と「中」のブランドを一つのグループに持つことで、異なる層の市場をバランスよくカバーしようとしたわけです。
そして、翌年の1931年になるとそこにレマニアも加わり、クロノグラフという武器が追加されることになりました。
レマニアを知らない方も多いと思いますが、パテックのクロノグラフもベースムーブはレマニアなので、かなり実力のある会社です。
詳細をご希望の方は、こちらの動画で詳しく解説しておりますので、お時間のある際にご覧くださいませ⬇️
ASUAGの役割の変化
1940年代になると、政府と銀行の出資によって作られたASUAGは、半官半民の国家の子会社ではなく、私企業グループになりました。
要するに、ASUAGは民間企業になったわけです。
それと同時にASUAGにロンジンを追加し、ムーブメントから完成品までを作れるグループになっていました。
また、民間企業になったことで、その下にあるエボーシュSAの経営に参加することになりました。
元々はエボーシュSAを救済するために、資金注入をするだけの役割だったASUAGですが1940年代に入るとだいぶ役割が変わりましたので、そのことを解説します。
スイス時計産業は、単にムーブメントを作るだけではダメでそれを完成品にし、ブランドとして展開し、世界中に販売する力が必要でした。
しかし、エボーシュSAはムーブメントだけの供給組織だったため、利益率が薄く環境の少しの変化で、また経営危機に陥る状況でした。
よって、ASUAG は、「産業全体を再設計し利益を出せる体質」にする必要に迫られたのでした。

ジャガールクルトも、元々はエボーシュでしたがその実力を認められたことで、カルティエ、パテック、オーデマ、ヴァシュロンが採用しましたし、大量に購入してくれる納品先があったから、会社として存続してたんですよね。
ですが、エボーシュSAは合体して効率化したは良いものの、太客がいなかったために経営が安定していなかったのです。
そのため、完成品までも作れるし、ムーブメントも自社で作ることが出来る当時の最強ブランドであるロンジンに入ってもらい、利益を出せる会社に生まれ変わる計画がスタートしたのです。
1930年代からロンジンは、アメリカ市場を中心に、鉄道時計・航空時計・スポーツタイマーで強い影響力を持っていましたし、ASUAGはグループの完成品輸出の“看板”としての役割を期待したのです。
ロンジンはロンジンで、政府がエボーシュSAやSSIHなどの合併を推進していることを横目で見ていましたし、ASUAGからの資金注入は大きなメリットとなりグループに参加するのでした。
その後、1968年にラドー、1972年にミドーがASUAGのグループに加わり、この2社がミドルレンジブランドを抑えることとなります。
ASUAGはエボーシュSAへの資金提供者から役割を変え、独立した自社で利益を上げるグループに変わっていったことを理解しておいてください。
ではここはらは、本題であるETAが無敵になっていく流れを解説します。
ETAが無敵になった流れ1969年『クオーツショック』
1940年代になるとASUAGは、ムーブメント製造をより効率的に進めることを通達し、エボーシュSAは会社の中で3つの部門が出来上がります。
それが下記の図になります。
セグメント(分類) | 担当した主な会社 | 内容 |
---|---|---|
手巻きムーブメント | FHF(フォンテンメロン) フルリエ(Fleurier) ユニタス(Unitas) |
標準的な3針手巻きを供給。信頼性と量産性を兼ね備えた設計で広く採用された。 |
自動巻ムーブメント | ETA(エタ) フェルサ(Felsa) AS(ア・シールド) |
自動巻機構の開発と大量供給を担う。ETAが中心的存在となり、後にすべてを統合。 |
クロノグラフ機構 | ヴィーナス(Venus) バルジュー(Valjoux) |
複雑な機構を持つクロノグラフを専門に製造。Valjoux 72、Venus 175などが有名。 |
手巻きはフォンテンメロン・フルリエ・ユニタスを筆頭に。
自動巻はETA・フェルサ・アドルフシールドを筆頭に。
クロノグラフはヴィーナス・バルジューを筆頭に、3つの部門に分割されました。
そして、1948年になるとベースムーブとローターとの間にボールベアリングを挟んで巻き上げ効率を高めたエテルナマチックを誕生させたことで、エボーシュSAの中でのパワーバランスに変化が見られます。
ETAは他社(FHF、AS、Peseuxなど)が専門性の高い小規模生産だったのに対し、ETAは“規格統一”と“汎用性”を武器に拡大していきます。
現代のETAにつながる部分ではありますが、ETAは大量生産と汎用性を武器に、ムーブメントだけでも十分に利益を出すことが出来るメーカーへと変わっていきました。
また、エテルナマチックを誕生させたことで技術力もあることがこれまで以上に評価されたことで、エボーシュのリーダー的な存在になろうとしていました。
そんな中で起きたのが、ETAの無敵化に拍車をかけた、1970年代のクオーツショックです。
SEIKOが1969年にクオーツウォッチ『アストロン』を誕生させたことで、スイスの機械式腕時計は壊滅的なダメージを受けることになります。
クオーツウォッチの高精度・低コスト・大量生産可能という特性が革命を起こし、従来の機械式時計が一気に時代遅れになりました。
よって世界中の消費者が「安くて正確なクォーツ」に流れ、機械式時計の売上は激減し、スイスの中小ムーブメント会社・時計ブランドは在庫過多・売上急減・倒産ラッシュに陥ってしまうのでした。
1970年代半ばから、クオーツの煽りを大きく受けることになるのですが、1979年にはスイス時計産業の雇用は約9万人 → 約4万人に激減したそうです。
ここでASUAGは決断をします。
エボーシュSA内にある不採算事業や、ETAとほとんど同じムーブメントを作っているのに汎用化出来てないブランドを、ETAに集約させることにしたのです。
下記の表はその決定が下された後の流れになります⬇️
吸収元企業 | 吸収年 | 主な特徴 | 吸収理由 |
---|---|---|---|
FHF(フォンテンメロン) | 1982年〜 | 世界最古のエボーシュ会社、Cal.96など有名 | 小型汎用機で定評あるが競争力低下 |
Peseux | 1985年〜 | Cal.260・7040など薄型・高精度で知られる | 薄型専業ゆえに汎用化・量産に限界 |
Valjoux | 1986年〜 | Cal.72や7750などクロノグラフを設計 | クロノ需要の低迷、量産が困難に |
A. Schild(AS) | 1980年代初頭に統合 | Cal.1686など手巻き・自動巻の幅広い機種 | ETAと得意分野が競合し、再編で吸収 |
Landeron | 同時期に吸収または停止 | 手頃なクロノグラフムーブ(Cal.48など) | クロノグラフ市場の縮小で吸収対象に |
このような背景があり、ほとんど全てのブランドがETAの中に吸収されるのでした。
そしてその決断をしたのも、ETAではなくASUAGというのを理解しておく必要があります。
ではここからは、先ほど解説したSSIHとASUAGの関係について解説していきます。
SSIHとASUAGの統合によりSMHが誕生
1983年にSSIHとASUAGが統合し『SMH(Société de Microélectronique et d’Horlogerie)』という新しい会社が誕生します。

ASUAGはエボーシュブランドをETAに集約したとしても、経営危機は大きく改善されておらず、SSIHもクオーツショックの影響をダイレクトに受けていました。
ここで出てくるのが、スイス政府とスイス銀行(UBS、クレディ・スイス、スイス・バンク・コーポレーション)でありこれらの組織が9億スイスフランを投じて、2社を合併させました。
ASUAGも元々は、政府と銀行が主導して誕生したグループだったのですが、前述した通り1940年代には自分たちで経営をするようになり、そこにロンジンを取り込んだりと、民間企業となっていました。
よって、民間企業のASUAGとSSIHが合併することになったのです。
前回のパートでETAがエボーシュSAのほとんどを吸収したことを話しましたが、SSIH側にはムーブメント専属のレマニアがありました。
これを1つだけ残しておくのも、効率的な生産の足枷になるとして、この時点でレマニアもETAの中に吸収されることになります。
このレマニアとETAの中に含まれるバルジュームーブメントの合体の歴史は、SMHの誕生に通ずるものがありますので、そのことについてはヴィンテージウォッチライフのこちらの動画で詳しく解説しておりますの気になる方はこちらの動画もご覧ください⬇️
動画の中では、レマニアに置き換わったところまでしか話していませんが、1990年代に入ると再度機械式が脚光を浴びることで、バルジューCal.7750がETA社製Cal.7750として復活したという歴史ですね。
翌年の1984年には、経営再建のために、コンサルタントとして参加していた ニコラス・G・ハイエック がCEOに就任することで、黒字化を実現し、クオーツショックという冬の時代を乗り切ることとなりました。
その後SMHはスウォッチグループに進化し、今のスタイルに落ち着くのですがスウォッチグループの顔ぶれを見ればなんでそんなメンバーなっているのかがなんとなく分かって頂けたではないでしょうか。
スイスのグループの成り立ちは特に、スウォッチは難しいので出来るだけ分かりやすく解説させて頂きました。
今後はニコラス・G・ハイエックや別グループではありますが、ギュンターブリュームラインなどの人物にフォーカスを当てて、記事を作成していく予定なので、楽しみにされててください。